[hikaliのゲーム論](9) レコンキスタ 物語解析解説(後編part5)


 こんばんわ! 管理人のhikaliです。
 なんか、間が空きました(あいてないか?)。
 がしがし続けていきましょう。

 なんか、物語解析を思いっきり説明したような気がするのですが、なんか説明していない気がする。
 物語解析理解できましたか!
 できていればこのパートの任務完了、できていないとまったくだめだめなのですが、前回二回に渡って、ちょっと実例ばかりになってしまったので、すこしロジカルに補足的な説明を、幅広いところに触れながらしたいと思うのです、そっちの方が分かる方も多い気がしますので、もうちょっと丁寧に説明していきたいと思います。

 物語解析ってなんでしょうか?
 これまでの連載を続けながら、ああ、わたしはこれをやってきたのだなと感じたのは、この図式でした。

 倒すべき悪の枢軸 ストーリー < 物語 > ゲーム よって立つ正義

 これは前回も書いたと思います。
 物語解析は、ゲーム原理主義的な思想からの、物語を介してのストーリー側への反撃に近いところがあります。
 わたしの視点からしますとゲームは、つまりよって立つ正義であるはずのゲームは、一本道シナリオになっていったり、映画っぽくなっていったり、ゲーム製作者がストーリー論を語り始めたりと、もう敗北どころのはなしではないほどずたぼろに負けまくっていたという印象でした。
 暗黒の中世でいえば、せっかく勃興したキリスト教圏が、イスラム教圏に押されまくって、どんどんと領地を失ってしまっている状態です。
 見るも無残と書く以前に、ストーリーゲームはなくなってしまうのではないか、という印象さえ受けるといいますか、現状を冷静に見回してみれば、ゲームである物語は絶滅危惧種になってしまったといってもおかしくありません。

 物語解析はゲーム原理主義な立場から、物語を介して、ストーリー側に攻め込んでいった、十字軍というと大げさなので、もう少し小規模なレコンキスタ、みたいなものだと思うと分かりやすいかもしれません。
 ゲーム側の思想、ロジックで、物語を語り、ストーリーの領地に攻め入って、その領地を奪い返す。
 これが物語解析の本質を端的に言っている言葉なのです。
 が、こういう試みがあまりされていないので(そしてゲーム側の敗勢がかなり明らかなので)、あまりにも異質すぎて分かりにくいのかもしれません。

 分かりやすくいうと、ゲーム視点で見ると物語はこれまで文学論で語られてきたことを全否定するぐらいのことを言うことができる。もしくはそれぐらいのポテンシャルがある。
 しかし、もはや放棄に近いような状況になっていて、キリスト教徒はこの世からいなくなってしまうのではないかとさえ思えてくるのです。
 別にこれは文学論憎しではないのです。
 そうじゃなくて、反撃しないとゲームが滅びてしまうので、反撃せざるを得ないのです。
 なので、別に文学論によらなくても、シェイクスピアなんて簡単に理解できるぜ? と言ってみたり、どー考えてもシェイクスピアのパクリだろうというゲームを実装してみたり(これはミリーの天気予報)、傑作と呼べる作品、例えば千と千尋の神隠し、例えばのび太と鉄人兵団を、ゲーム視点で分析して、それが的確な分析であることを証明してみたりしてきたわけです。
 これは文学論が間違っているというわけではなく、別の視点があって、文学論は唯一の視点ではない、ということを言いたかったのです。
 ストーリー論による支配を崩したかったのです。
 世界が全部、どこかの宗教でなければならない状況を想像してみてください。
 別にキリスト教の人がいても、イスラム教の人がいても、無宗教な人がいても、まあ、わたしは一応仏教ですw と逃げつつも、いろいろな考え方があったほうが、多様性があるほうが世界は安全だし、豊かであると、わたしは思います。
 またこれは個人的なモチベーションですが、誰も考えたことのない理論体系を構築し、その構築したものが実際にはかなり多くの問題を解決出来てしまうものであることを解き明かし、実際にそのやり方で実装できてしまったりするのを見るのはとても知的な事であり、またエキサイティングな事です。
 カジュアルな言い方をすれば、新しい戦術をサッカーに持ち込もうとしている、サッカー監督のような気分です。上手くいけばサッカーが変わるかもしれません。その可能性にとてもわくわくするのです。

 しかし、この考え方は、実はわたしが発明したものではありません。
 ずっと前から確かにあったはずのものが、なぜか体系立てて研究されることなく、雨ざらしになっていたのです。
 それでわざわざ物語がゲームであった時代の遺物を掘り起こして、それはどのような考え方で成り立っていたのか、どうやっていたのかを研究していたりするわけです。
 ああ、もちろん、その成果を元に実践もしてみています。
(その実践だけで数年かかってますので、あまりにも気長に見えるかもしれませんがw 淡々とやってます。ちなみにわたしは恐ろしく気長な性格です。というか、あまりにも気長すぎて、自分でも何のためにやっているのか、よく忘れますw)
 ちょっとこれだけ読んで、ああ、結構まじめにやっていたのね、と思って頂ければ、ほんの少しでもその意義が分かってもらえると嬉しいのですが。

 実践の成果はこちら!
 ■ミリーの天気予報 < シェイクスピア風のゲームブック
 http://story-fact.com/gamebook_dt3.php
 ■死神の帰還 < ゲーム的な作り方で書かれた小説
 http://p.booklog.jp/book/20474

 えっと、宣伝乙ですねw
 ちなみに、ミリーと死神の帰還は、分かる人には破壊力満点です。
 ただ、その破壊力は、物語解析の破壊力なのですね。
 それが、これからお話しする話です。


 ■静と動の物語解析の本質的な話。それはなに?

 と、いうわけでして、物語解析理論の説明なのですが、この理論は物語をゲーム側の視点で見た理論体系と説明してきました。
 この物語解析理論は、静の物語解析理論、動の物語解析理論があり、現在話しているのは静の物語解析です。これはぶっちゃけていうと、TRPGのシナリオ(静)とマスタリング(動)の話になるのですが、それでは分かりにくい人のためにもう少し説明しましょう。

 まず、ざっくりとした感覚が掴めるように、何も知らない人にはわかりやすい、何もかも分かっている人にはわかりにくい説明をします。

 静の物語解析は、つまりシナリオの設計理論は、ゴルフコースの設計理論です。
 動の物語解析は、つまりマスタリング論は、実際のゴルフのプレイ論そのものです。


 たぶん分かっている人は首をかしげるはずなので、言い換えます。

 静の物語解析で作るのは、スーパーマリオのステージです。ブロックや敵の配置。
 動の物語解析で話すのは、スーパーマリオのプレイそのものです。


 だいぶ、あ、なるほど、と思ってくれたと思うのですが、もう一段階分かりにくいところがあって、いまからそれを説明します。
 動の物語解析の説明が分かりにくいのです。
 実のところ、TRPGにはマスターとプレイヤーという2種類のプレイヤーがいまして、それぞれに役割が異なります。TRPGの大規模版であるPBMのマスターをしていた感覚では、マスターが旅館の女将などの従業員、プレイヤーがお客さん、シナリオが旅館そのもの、というのが一番近い感覚です。
 で、動の物語解析で話すのは、マスタリング、つまり旅館の女将などの従業員はどうもてなせばいいのか、という話になるのです。
 ですので、

 ゴルフプレイヤーのプレイ論というわけではない。
 スーパーマリオをいかに上手くプレイするかの話ではない。


 この点が非常に分かりにくいのです。
 ただ、ここまで来て、この言葉を言われたときに、たぶん気付くと思うのです。

 ストーリーってプレイヤーが作るものであって、あらかじめ用意するもんじゃないよね?

 この感覚を掴み取ってほしいのです。
 ゴルフコースは、そこで名ゲームが誕生してほしいから存在するのです。プレイヤーを支配したいから存在するわけではない。名プレイを生んでほしいから存在するのです。
 ここはとても難しいので、言葉に困るのですが、ゴルフってそんなに不自由だろうか? とかくと、だいぶ突破できた気がします。
 この辺になってくると、ストーリーが「倒すべき悪の枢軸」に見えてくるでしょうか。
 正反対のサイドである「こちら側」が認識できれば成功ですw

 ストーリーはプレイされた結果であって、その通りにプレイする予定表ではない。

 もうすこし、ストーリーサイドに攻め込んでみましょう。

 シェイクスピアの台本って、お芝居をしながら、毎日のように書き換えられていたと思うのですよね。役者のアイデアとかを取り込みながら。

 これは忠臣蔵が日々改善されながら演じられていたところからかなり自明だと思うのですが、少なくとも競争の激しかった当時にあって、お客さんの反応を見ながら、シェイクスピアともあろう人が、台本を書き直さなかったというのは考えずらい。役者と相談しながら台本を書かなかったはずがない。
 というか、当時印刷するとなると、かなりコストがかかりますので、現在のように舞台台本が印刷されたというのは考えにくい。それよりもだいぶ下った時代である忠臣蔵において、印刷された台本が役者全員に配られたのだろうか?
 もし、印刷された台本がなければ、その台詞よくないなあと思ったら、みんなで考えて台詞書き直すんじゃない? 普通は。

 こういうことを考えた人がいないというのが極めてふしぎなのですが、想像力の問題なのですが、ゲーム視点から見るとこういうことが当たり前に出てきます。ゲームをしていれば、当然にどういうゲームになるか、サッカーを想像すると分かりやすいのですが、当然に、ゲーム前にイメージトレーニングします。想像力がないとまずはゲームをすることはできない。
 シェイクスピアを論じることなどできない。
 これは一種の盲点なのですが、その盲点を生み出すシステムにほころびがあって、当然にそれは改善可能なのですが、残念なことにそこに恐ろしくでっかいチャンスがあることに気付く人が少ない。
 キリスト教の思想以外を許さなかった暗黒の中世のように、ストーリー教以外を許さなかった暗黒の現代であるかのような気がしてしまいます。
 でも地球は動いているよね?
 死刑にはならないとは思うけれどもw

 シェイクスピア周りを読んでいてびっくりするのは、当時のエリザベス朝時代の劇作家は基本的には、シェイクスピアと遜色ない、という記述が現れることです。
 これを読んだ瞬間にこう思わないでしょうか?

 その当時のやり方こそ正しかったんだよ! ばかもん!

 われわれは輝かしい黄金時代のやり方を失ってしまった、哀れでお粗末な、自己満足気味の現代人なのです。そのことに想像力を働かせてみて、あれ? もしかしたら、遺跡を掘ればお宝ザクザクなんじゃね? と思えば、なんとなくどんだけ損しているかがわかるでしょうか。
 ルネサンスというと大げさですが、それぐらいのチャンスはあるのです。

 創造的なサッカー、いやゲームの話をしましょう。
 もし楽しくなってきたのならば、ようこそ、ここがゲームです。ストーリーとかありえないよねw ようこそ、ゲーム教へ。


 【本編に取り上げられなかった内容の断片で、意味ありそうなこと】

 断片的に羅列します。
 いい論点なので。


 ・シェイクスピア喜劇の捉え方

 結果論として残った台本がシェイクスピアであると。
 わたしはそんな風に思います。
 特に喜劇の台本を読んでいると、ほんとうに横道にそれまくるのですね、シェイクスピアは。わたしは、バスとかで読んでいて、爆笑しそうになるので、まあその横道も楽しいよね、と思うのですが、これって、お客さんにウケたネタを、その後もやることにした、ということではないのだろうか? と考えて、

 シェイクスピア喜劇 = コント

 と考えると、ああ、落語でもいいのですが、台本を書き換えそうですよね?


 ・マリー・ロール・ライアン

 これが恐ろしく高度な問題提起をしているという風に分かった瞬間に、わたしの仕事は終わりです。これが、マリー=ロール=ライアンが超えられなかった壁なので、あとは、わたしじゃない人に任しても大丈夫な気がしますが、ここを突破できる人がどれだけいるのか、そう思ってしまいます。

 ストーリーってプレイヤーが作るものであって、あらかじめ用意するもんじゃないよね?


 ・SKYRIM

 物語解析の定義はシャープすぎるのですが、ゲーム側のかなり実力のある人から見るとたぶん、なにいってんの? こんなの当たり前じゃん、という定義なのです。

 ゲームというと幅が広いのですが、分かりやすいところでは、PCゲーム業界で、正統派過ぎる正統派として名高いというか、出すたびに年間賞をとる、エルダー・オブ・スクロールシリーズの最新作、SKYRIMを紹介するのですが、この動画をみるだけで、物語解析が言っていることが理解できるかもしれません。

 ここで、とりあえず言っておきたいのは、SKYRIMの世界は、人物を表すポリゴン(オブジェクトのほうが正確ですが)、舞台を表すポリゴン、道具を表すポリゴン(ただし効果等は決まりごと(ルール)に属す)、そして全体を束ねる決まりごと(ルール)だけで構築されているということです。

 ぴたりと物語解析の定義と当てはまるのは、出元がD&DといいうTRPGでおなじなので当たり前なのですが、それが事実であることを確認してください。

 あっと、例えば人物が話す台詞は当然に人物に従属します。
 これは独立要素ではありません。
 もし、その人物が殺されてしまっていれば、当然にその台詞は出てこないことになります。いないかもしれない可能性があるのは、ゲームとストーリーの大幅な違いですね。ここは考え始めるとすごく長いのでw さらっと流しますが、ドラえもん、のび太と鉄人兵団からしずかちゃんを消そうとしているのを振り返って、それってどうなるんだろうと考えて頂けると、だいぶ高度です。
 これはとてもゲーム的な思考で物語を見ているのです。

 王道的な、いやこっちのほうがいいでしょうか、伝統的な、もうちょっと格好つけるとエンシェントRPG的のゲームでは、これは実際に起こることです。

 SKYRIMでも、あと例えばダークソウルでも、このあたりのゲームが滅び行くゲームでないことを祈りますが、そこで展開される物語は、しずかちゃんを主人公が殺してしまったという世界がありうる世界です。それができることがいいのではないのです。それがあっったとしても物語が続くだけの強靭性を持っている、この部分がゲームだねえという部分だったりします。

 だって、プレイヤーは自分の権限内で、世界を好きにできるのですから。

 とりあえずみてみましょうか。





 読んでない可能性が高いですが、なんとか次回ではしずかちゃんにたどり着きたい・・・。



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